catalinaの備忘録

ソフトウェアやハードウェアの備忘録。後で逆引きできるように。

父の日ですね

たまには文章書かないと日本語忘れてしまいそうです。職場でも人と話することもないので。かたりぃなです。

 

ブログで技術以外のことを書くのは初めてかもしれません。どちらかというと政治&過去語りな内容。

興味のない人はそっと閉じてくださいね。

 

まず、私の父はもういません十数年前に他界しました。

そんな父は私がプログラマになるための最後の助けをしてくれました。

 

上京・進学のとき

時代は20世紀末期。就職氷河期が始まっているので大学進学したところで就職先があるかどうかもわからないご時世。

国公立ならあるいは?という選択肢もありましたが、浪人などしようものなら阪神淡路大震災の影響で悪化していた家庭環境。居場所がないのは自明でした。実家は四国なので、震災の直接的な影響はなかったのですが、親戚関連とかでいろいろあったらしいです。

 

公務員という選択肢も考えましたが、当時は就職氷河期の折。公務員の競争率は跳ね上がっていましたし、田舎なので縁故採用らしき枠がほとんどを持って行ってしまうんですね。悲しい現実です。

 

そんなこんなで、私がお金を使ってしまうと弟や妹が進学できなくなってしまう。国公立に賭けるみたいなギャンブル打つくらいなら専門学校で。と進路を決めました。

国公立に余裕で行ける学力がなかったのは自分の勉強不足だったんだろうなと思います。

専門学校となると今まで視野に入れてなかったので色々調べる必要がありました。

私がいた地方の専門学校は一族経営だったり、人脈だけで成り立ってたりと、そういう所だったので、こうするほかなかったという状況だったので場所は東京となりました。

母は大反対でしたが、父は快諾とまでは言わないまでも「やれるだけやってみ。無理なら帰ってこい」と言ってくれました。

 

上京の日は父がついてきていました。寮母さんに挨拶してから、西友で生活に必要なものを買ってくれたのを記憶しています。「バイトで頑張って貯めたみたいだけど、それは生活のためじゃなくて自分のやりたいことをやるために使いなさい。」そんなことを言ってた気がします。

 

当時の私の地方のバイト代は時給600が平均値でしたから、ほとんど溜まっていない状況でした。あの生活基盤を作ってくれたお金がなかったら、あっというまに困窮していたと思います。父に感謝です。

 

パソコン

進学と同時にパソコンを買いたかったのですが、そんなお金はどこにもありませんでした。進学後はなんとかしようとバイトしつつも試行錯誤の毎日でした。

通学時間中に本を読んで、紙にコードを書いて、学校のPCで打ち込むという生活を半年近く続けました。バイトも掛け持ちしていたので当時の睡眠時間は3時間前後だったと思います。今にしてみればよく生きてたなと。

専門学校の一年目が終わるころにはC++, DirectXくらいはいじれるようになっていましたが、やっぱりパソコンなしでは限界がありました。

ダメもとで父に電話したところ「ボーナスが少し入った。少しだけなら」と。

当時としてはなかなかのスペックの中古PCとモニタ(Gateway製, Pentium100MHz, RAM=96M)みたいなマシンでした。

おかげで制作発表会では実写を取り込んだ2D格闘ゲームを展示できて反響もありました。

反響があったというのが嬉しくて、寝る間も惜しんで色々プログラムを作ってた気がします。

父のおかげです。当時の私はまだ19歳でした。

 

成人式

もともと出るつもりはなかったのですが、アルバイト先の仲間から出たほうがいいといわれ、休みももらえたので出ることにしました。

成人式前日に実家に帰ってみると、母が封筒をくれました「待ってたよ。父さんから預かったお金、スーツ代。リクルートスーツじゃせっかくの成人式が台無しだからね」と。

成人式に多少なりともまともなスーツで参加できたのも父のおかげです。

その後も何度か実家には帰ったりはしました。

父から聞いた最後の言葉は「気をつけてな。悪いやつに騙されるなよ。お前は人が良すぎる」でした。

 

父の他界

世間がサブプライム問題とか賑わっていた時期でした。

当時の会社の同僚の結婚披露宴の最中に電話が鳴りました。父が倒れたと。

すぐ羽田から四国へ飛び、病院に着いてみると父は手術中でした。

待っている間に状況を聞いてみると、あまりよくないようでした。

一度は医大病院に運ばれたが、医者が居ないからと県立病院へ移送、一刻も早く手術をしないといけない状況なのに、ここにも医者が居ないから手術まで数時間待ち。そんな状況でした。

幸いにも手術は成功しました。

 

私は安心して東京へ戻り、次の日には再び職場で仕事をしていました。「元気になったら好物でも買って行ってやろう。一緒に酒飲んだこともなかったな」なんて呑気に考えてました。

3日後、再び電話がなりました。合併症とのこと。もうダメだと。

私は喪服を用意して再び四国へ飛びました。「すぐ息を引き取るわけではないけれども、回復の見込みは極めて低い。」そんなお医者さんからのお話でした。

私はせめてその時くらい一緒にいてやろうと一週間有給を入れました。

 

当時の私の職場は下請け企業なのでリーマンショックの余波を受けての政治争い(受注争い)が大変ですが、そんなことよりも大切なことがあると思っています。

 

親のことが好きとか嫌いとか、自分の立場がとか、会社の業績がとか。

そんなものどうでもよかった。ただ今まで助けてくれた父の最期を看取ることくらいしたかったのです。

 

有給の期間が過ぎ、母が告げました「あんた、リーマンショックの影響で大変なんだから帰りな。あとはなんとかする。」と。

強情な母なのでそれを受けて、次の日に東京に戻ることで話がついた夜。病院から電話でした。

「血圧が低下しています。ご家族や親類の方を。」

没年50歳後半でした。

 

職場に電話して忌引き休暇の連絡、葬儀屋の手配、病院の請求書の処理。

葬儀は私が喪主を務め無事に終えることができました。

火葬のボタンを押すとき「今までありがとうございました」と。

 

後悔

せめて一緒に酒くらい呑んでやればよかった。嫁に合わせてやりたかった。

そんな思いで四十九日を終え、やっと本格的に職場復帰したころでした。

やはり長期間職場を不在にすると政治的に不利になりますね。

現場としてはそんな負荷を押し付けられたと思うでしょうし、総務や人事は知ったこっちゃないという状況です。

心理的にも耐えられないと思い、退職を申し出ました。しばらく田舎で父の残してくれたものの処理をしようと考えていました。

 

ここで父の最期の言葉を思い出しておけばよかったと悔やまれます。

離職票の退職日や保険の加入などを偽装され、金額的にも精神的にもかなりの損失を被りました。

ストレスからの暴飲暴食からの胃潰瘍で出血多量となって死にかけましたが、今も私はなんとか生きてます。

 

もう10年以上前のことです。

 

個人的に思うこと

私は親があまり好きではありませんでした。。

ただ、今にして思えば、生活が苦しい中で、父は本当に必要なものを選んで私に与えてくれていたんだと思います。

父が他界したとき、葬儀屋さんからいただいた言葉に救われた気がします。

「皆さん、親にお礼してないと悔やまれます。ただね、子供が親にするお礼というのはですね、10歳まで一緒に生きるというのが最初にして最高のお礼なんですよ。10歳過ぎたら、感謝しつつ自分の道を進んでいく。それで充分なんですよ」と。

確かにそれくらいまでの父の姿が一番記憶に残っている気がします。それを過ぎると反抗期も始まりますし。

 

政治に対して思うこと

法の下の平等というのは何なのだろう?と父の他界を機に本気で考え続けています。

 

ただ、一つだけ不平等だと言えるのは父の他界です。

小泉政権のときに「地方切り捨てだ!」などと叫ばれていましたが、私は他人事のように思っていました。

地方切り捨てが行われたらどうなるのかも考えず、自分の地方がその切り捨てられる側になるなんて考えず。

そして「医者がいないから手術ができなかった」という言葉をまさか父が受けることなるなんて考えてもいませんでした。

 

父はこのことを教えてくれたのかもしれません。

 

総括

日本の政治によって私の父は命を奪われた。私は今でもそう思っています。

ただ、憎しみは何も生まない。だから私は悲しむ人が少しでも減るような社会になってほしい。そう願います。

今の日本社会を見ていると、皆が自分のことで精一杯で余裕がないなと感じています。

 

だとしたら、それは今の政治であったり、社会、働き方、会社、色々なしくみが限界を迎えているのではないか?と。

 

少し暗い話になりましたが、できることなら、全世界から苦しみが無くなって幸せになれる世界が訪れるといいなと思っています。

これを仏教の言葉で「大欲得清浄」というらしいです。意味は大きな欲は清浄を生む。

自分だけ良ければそれでよいというのではなく、もっと大きな目で物事を見てみると何か大切なものが見えてくるかもしれません。

 

私にそれを教えてくれたのは父の命でした。

 

南無大師遍照金剛